めるくまーる(卵2句) 

2019/01/10
Thu. 13:52

わたしはあまり卵を食べない。週に1個食べるか食
べないか。あまり食べないのはたぶん、冷蔵庫の卵
置き場がちょうどわたしの死角になっていて、ごは
ん何にしようかなあと冷蔵庫を見渡しても、卵が目
に入らなくて、あ、卵、ってならないという単純な
理由。だけどなんとなく食べきると買ってくるので
冷蔵庫にはいつも卵が入っている。


  今家に卵は何個あるでしょう  樋口由紀子


突拍子すぎて、とりあえずなんか答えそうになるけ
ど、よそ様のお宅の卵事情なんかわかるはずないし
この質問にまともに答えること自体野暮だとわかっ
ていてあえて聞いてくる押しの強さが作者であり卵
のさりげなさなんだと思う。

(卵といえばまずにわとりの卵を思いうかべたわた
しだけど、めだかの卵の可能性だっておおいにある
わけで、でもめだかの卵だったらめだかの卵と書く
よね。)


  なにもない部屋に卵を置いてくる  由紀子


なにもない部屋が一変して卵のためだけの部屋にな
る。偶然ではなく人的で意図的に置かれたことの意
味を考えさせられる〈置いてくる〉。なにもない部
屋にはたして次はいつ、誰が、来るのか。もしかし
たら次に来るのは卵を置いた本人かも。そこが、卵
をこっそりひとり抱くための卵部屋だとしたら…。


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はいく 

2018/10/18
Thu. 10:26

久しぶりに一冊最後まで一気に読めた句集に出会っ
た。岡田一実さんの『記憶における沼とその他の在
所』である。
残念ながら川柳ではなく俳句なんだけど。



   蟻の上をのぼりて蟻や百合の中   一実


もちろん「蟻の上をのぼって蟻は百合の中」とすれ
ば川柳になるけど、それでは伝わり切らない蟻への
情とか作者の小さな感動が、文語体の重みと切れの
清々しさによってしっかり感じることができる。
(のがくやしい。)



   煮凝を纏ふ目玉を転がせば
   焼鳥の空飛ぶ部位を頂けり


目玉の句、最初読んだ時わからなかったけど、
なんのことはない煮魚のことですよね。(違ってた
ら恥ずかしい)そのなんのことはないことをこんな
いやらしく詠めますかって話ですよ。次のだって手
羽先でしょ。それをこんなもったいぶった洒落た言
い方できますかってそもそも誰もしませんからって
話ですよ。言葉の持つ概念を無理に崩そうとか加え
ようとしないで作り上げた奥行きのある世界。



   見るつまり目玉はたらく蝶の昼
   椿落つ傷みつつ且つ喰われつつ


なんやろう。しつこい。めっちゃ説明してくる。や
のにいやじゃない。引き込まれる。わたしみたいな
頭の悪い子にも分かるように話をしてくれる養老
孟司さんみたいな感じ。



   飛ぶ鴨に首あり空を平らかに
 

この句は鴨に首があることが発見の喜びなのでは
なくて、飛ぶ鴨を点でもなく線でもなく面と捉えた
ことである。全方位に広がる空を平らにならすよう
に飛んでいく鴨と空のうつくしさ。


その他にも、

   秋晴や毒ゆたかなる処方箋
   鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
   瓜ふたつ違ふかたちの並びけり
   冬木の芽ときには肺の楽器となる
   喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり
   しらほねに耳の骨なし女郎花
   風船のしぼみて舌のやうなもの

グロテスクなんだけどやさしい、サディスティック
なんだけど痛くない、そんな句にとても惹かれた。
ちゃんと見えてるし頭ではわかっていることがつま
り記憶における沼だとしたら、それを引きずって歩
くのは終わりにしたいと思った。


 かたつむり焼けば水焼く音すなり  岡田一実





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森田律子句集『柱状節理にべっぴんの足跡』 

2018/08/20
Mon. 10:03

律子さん。規律の律子さんは、いつも人として正し
い道を揺らぐことなく進んでいる。旋律の律子さん
は、たおやかにコミカルにスキップする。両方の律
子さんのバランスが実によいのだ。


  ぎふ蝶のうなじに勝てるはずがない
  謝りに来るなら石なんか蹴るな
  歯ブラシをくわえたままで言う事か
  寒いのは小指が長いからですか


句会をご一緒すると、披講の時につい吹き出して
しまうのが律子さんの句なのだ。

そういえば律子さんがガハハと大口を開けて笑う
ところを見たことがない。
え、怒ってるん?と思わせて、実はまじめに笑わ
せにやってくる。

  
  アリンコに番号つけてしもたがな
  そんなこと言うてへんから始まって
  六丁目でメンタム塗ってもろたんか


関西弁を効果的に使った句も多い。


笑ってしまう句があれば、唸ってしまう句も。
あーー、とか、おーー、とか、はぁーー、とか。
 
 
  烏とソフトクリームはぐるである
  くるぶしで包丁を研ぐ午後になり
  バケツの底はバケツのものだ 亀よ
  放課後をまだやっているカイツブリ


律子さんだなあ、川柳だなあ。


  パンクしたついでに夕日見て帰る  森田律子


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守田啓子句集『失った深さを埋めるように 雪』 

2018/04/05
Thu. 18:18

  そんな日もあったねちぢみほうれん草
  逆境に満月なんか出てこないで
  なにもかも皆既月食だよ さむい
  はい、そうです。スリッパに星見せました。
  海へ行く聞き分けのないホースです

これらの話し言葉の句のおもしろいのは、誰かに
話しかけている感じはなくて、ひとりごとのような
つぶやきのようなものなんだけど、句にした時点
でそれは聞いて聞いてに変わってしまうところで、
いい感じにもったいぶったヤな感じになるんだけ
ど、聞きたい聞きたいってなるところ。


  さらされるあたしのもふもふした部分
  お尻から糸を出すひとりの時間
  全方位肯定ムーミンの顔で
  必然を行く美しい蝶結び
  寒天を出ていいものか迷ってる


見られたくないのは「もふもふ」「お尻から糸」。
見られてもいいように取り繕った「ムーミンの顔」
と「蝶結び」。もっともっと自分らしく生きたいの
にという思いがばんばん伝わってくる。でもなあ、
寒天に固められるってなんかいい。カクカクしてる
けど、それなりに弾力はあるし、飛び出そうと思え
ば出られそうだし、結構快適なんじゃないかなと
思えてくる。


  私より淋しい音を出しなさい


淋しい音か。むつかしい。自分の淋しさの深さな
んてだれにもわかって貰えないから自分の淋しさ
が一番なのだ。啓子さんはおかじょうきの3月号で
<たまらなくさびしい方は3番へ>という句を作って
いる。わたしみたいな寂しがりは「私より」や「た
まらなく」に呼ばれてつい返事をしてしまう。


  洗濯物の揺れ方 人の壊れ方
  ずぼらではありますがおっぱいがある
  死んではいないか万能ネギ散らす
  桜はまだでニコニコ動画みて眠る


こんなふうにさらっとおもしろいことを言いたい。
感傷におぼれないで颯爽と茶化したい。本人は
そんなおもしろいことを言ったつもりがないのが
なおいい。


  バラバラにならないように足を組む  啓子


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 ぜんまいのやがてくしゃくしゃな黄昏
 海鳴りがひとつコーヒーがふたつ
 肩先で群青を吐く翅を吐く


哀愁という言葉が似合う。人生という言葉が似合
う(本人ではなくあくまでも句において)。
誰かのために、そして自分のために生きてきたひと
はかっこいい。でもそれを口にしたとたんかっこ悪
くなる。これくらい遠回しで言葉少ながちょうど
かっこいい。


 葉桜のざわつく指は捨てなさい
 現実はほらねライオンの勝ち
 ゾウさんゾウさん手相は悪いのね
 ひややっこ性欲はまだ少しある
 団栗コロコロ明日定年なんですよ


クラスに1人か2人は必ずいる類のお調子もんだっ
たであろう奈良少年は、今ではたいしておもしろく
もないギャグや下ネタを見境もなく言いはなつもん
で、あー、はいはい、と言って聞き流すのだが、
時々あっと驚かせてくるからむげにもできない。


 葬儀屋が最敬礼で待っている
 ははごろし こごろし ちりし しんぶんし
 暁が降るよラッパ屋が死ぬよ


ラッパ屋が死んで次のラッパ屋のファンファーレが
鳴り響く。変わらない世界で質感のすこし変わった
わたしの死はなんか楽しそう、と思う。


 綿毛ふんわりこの子もきっと人を刺す
 ヒトヲサスレンシュウ カゴメカゴメ
 刃物屋の前で輪投げをくりかえす


「刺す」句が多い。なぜなら一艘さんはもと料理人
で包丁は体の一部で刺したり切り刻むのはお手のも
んだから。でも魚をさばくように輪投げはそううま
くはいかないだろうし、でもやり始めると無心にな
れる輪投げは刃物屋の前でするのに最適の遊びだ
と知っている一艘さんはやっぱりほんものの料理人
なのだろう。


どこもかしこも歯型のついたりんごヘラヘラ 一艘  




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小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』 

2016/11/10
Thu. 12:13

これまで小津夜景さんのブログや小論などを読ませていただいて、ダントツの印象が、この人
頭、いいんやろうなあ、です。ゲスな言い方ですみません。
だからその夜景さんの句集を読むということは、幼稚園児に哲学本を読めと言うてるようなもんで、
(いや、今も読まれへんけど)、句集を手にしばらく開くことができなかった。なんとか勇気を出して
ページを開く。


   
   あたたかなたぶららさなり雨のふる


たぶららさ。いい響きやな。聞いたことないけど。「たぶらかす」と「ぶらさがる」と「あぶらかたぶら」が
合体したような。
つまり「たぶらら」という形容詞の派生名詞「たぶららさ」だと思った。もちろん夜景さんの造語やと。

あたたかなたぶららさ。たたとらら。しゃぼん玉はしゃぼん玉同士がぶつかった時、割れないで引っ付き合う。
しゃぼん玉が丸いのも、割れないで引っ付き合うのも表面張力が働くからなのだそうだ。
夜景さんの俳句における言葉ひとつひとつがしゃぼん玉で、その表面張力によって引っ付き合ったものが
ひとつの句になっている。そしてひとつの句になった後もぎりぎりのところで不安定に安定は保たれている。

後日「たぶららさ」とは「タブラ・ラサ」で、《何も書かれていない書板の意》ロック
(イギリスの哲学者)の認識論の用語で、生まれながらの人間の心には白紙のように生得観念はないという
主張のたとえ、なのだと知った。(ほらね、あたしゃそんな言葉知らないよ。)

「たぶららさ」って何やろう、と調べようともしなかった自分のおこがましさをおおいに恥じた。
と同時に、こんなにもあたたかく清らな雨があることも知った。

   
 

   鳴る胸に触れたら雲雀なのでした   夜景



鳴くものと鳴るものにたいした差異はない。あるとしたらほんの少しのゆらぎ。
沁みる。  


   




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熊谷冬鼓句集『雨の日は』 

2016/06/03
Fri. 10:12

冬鼓と書いて「とうこ」サン。女性です。
日常生活を淡々とこなしながらも、ふいに気づいてしまった疑問、反発、あきらめなどをさらっと詠んでいます。




   反り返る歯ブラシ 私は悪くない
   人としてどうなんだろうと言われても
   空欄は空欄のまま皿洗う

一句目の言いっぱなし、カッコイイ!反り返った歯ブラシは強気な態度の表れと読むのが妥当でしょうが、
歯ブラシがそっくり返ってるのも、あの人を怒らせたのも、とにかく私はなんにも悪くない、とも読め、スカッとする。
そんな私を「人としてどうなんだろうと言われても・・・」ねえ。そもそもその上から目線が気に入らない。
こうなったら納得のいく答えが見つかるまで開き直ってお皿を洗い続けるしかないのだ。



   返さねば返せなくなる黒い傘

返すタイミンングって案外むつかしい。黒い傘の持ち主は男性だろうか。すぐに返さ(せ)なかった黒い傘には
時間がたつほどお互いの思いが絡みつき、いつまでたっても乾かない。だからますます返せなくなるのだ。
「かえせなくなる」という舌を噛みそうな感じもよし。



   縄張りのようにシーツが干してある
   言い訳が等間隔に挿してある

本来ならばしあわせの象徴である真っ白なシーツ。でも冬鼓さんはこれ以上他人が入り込むことのできない家族の孤立を
感じ、その見えない力を「縄張り」と表現した。プライバシー保護というこれみよがしなシーツで覆い隠された家庭の問題は
社会の問題でもある。
「等間隔の言い訳」も然り。すなわち人間のエゴである。本音を言えば「言い訳」は具体的な何かの方が絵的にはおもしろ
かったかもしれない。
言葉を選ぶ時、自分の感覚はもちろん、読み手の感覚をもっともっと信じていいと思う。



   錠剤の転がる先のわた埃
   行列を見ると屈伸してしまう

うわってなること、よくある。あるーって叫びたくなった。ただそれだけのことなんだけど。
屈伸は、、、ない。ないけど、分かる。地味ーによく分かる。



   百円の傘にひゃくえんぶんの骨
   水平かどうかを計る洗面所

「百円の傘にひゃくえんぶんの骨」のあたりまえも、「水平かどうかを計る洗面台」のあたりまえじゃないことも、
それに気づくことが喜びなのである。それは自分が見つけた時もだし、他人の句で気づいた時もなぜか同じくらいの
喜びなのである。



   それならと延長コード渡される
   矢印が否応なしにやってくる
   勧められた椅子に浅めに掛けている

延長コードは延長コードとして渡されたのか、他の使用目的で渡されたのか、作中主体の心の動揺が伝わって
くる。とりあえず一発芸、とかしてる場合ではなさそうである。
矢印を追いかけながら矢印に追いかけられている日々のくりかえし。「否応なし」がどんどん背中に突き刺さる。
でも自分一人ではなんにもできなくて、ぼーっとしてるからしょうがないとあきらめるんだけど、いつでも逃げだせる
ように浅めに腰掛けるくらいの危機感と冷静さはちゃんと持っている。この句が生き生きして見えるのは、リアリティが
読後すかさず追いかけてくるからだと思う。



   空き缶が蹴りたい位置に立ててある
   やがてそれはトンボに変わる貝拾う
   真四角に切り取ってある通せんぼ
   綾取りを渡し損ねた指の節
   トーストを銜えたままで他人の死



たぶん、仕事をしながら家事をしながら歩きながら運転しながら、冬鼓さんは川柳を作ろうとしているんだろうなあと
思いました。わざわざ考えなくてもいいことをわざわざ考えることは一見無駄なようですが、無駄だからこそ20年も
続けてられるんだなあと冬鼓さんの句集を読んで思ったのでした。


  

   雨の日の片足立ちのふくらはぎ   熊谷冬鼓







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うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ 

2016/05/13
Fri. 16:16

(転校生は蟻まみれ、ふたたび)
何回か前の記事に書いたんだけど、#うさぎ です。うさぎにハマってます。
うさぎといえば、わたしの中では学校のうさぎです。うさぎ小屋の。飼ったことないですし。
だからわたしにとってうさぎはペットでもなく野良でもなく、かといって野性でもなく、ましてや食用でもなかったわけです。
だのにです。

    これからは兎を食べて生きてゆく   小池正博


なんてこと!食べちまう!
あんないたいけなやつらの急所にグサッとナイフを突き刺し(知らんけど)、皮をはぎ、鶏でいうところのむね肉やら
もも肉やらに分け(知らんけど)、食べちゃうゾ、てなわけです。しかもこれから死ぬまで兎だけを食べるんだから、
何羽も殺しては食べ殺しては食べるを繰り返すだなんて。

うわぁ、兎かあ~。ここからなんですね、わたしがうさぎにハマったの。
じゃあ、どうしてわたしはここまでこの兎に心を奪われたのか考えました。そこで気づいたのです。
食用にされる兎がそんなにかわいそうじゃないと思っている自分に。
なんやろう、これは。

「自殺うさぎの本」という絵本のような漫画のような本があります。ここに出てくるうさぎがとにかく大がかりで痛そうな
自殺を繰り返すのですが、なぜか笑えるのです。(お暇な方は自殺うさぎで画像検索してみてね)
犬や猫は少しは自分の頭で考える生き物でどことなく感情もありそうだと思っているので、苦しむんじゃないかとか
叫ぶんじゃないかとか、悲しそうな目で見つめてくるんじゃないかとか、雑念が生じてしまいます。
その点うさぎは馬鹿っぽい。なんも感じてないっぽいからわたしの心も痛まないから絵に(句に)なるのだ。
だから殺していいというわけではなく。妄想して愉しむのにうってつけの生き物だったのです。(そのビジュアルもおおいに
寄与するところである)

「兎を食べて」は諦めの表れなのに、「生きてゆく」という勇気でしめくくる。その決意はなんなんだ?ってなるし、
逞しいんだか軟弱なんだか野蛮なんだか繊細なんだかどっちなんだ?ってなる。

この句の兎にすっかりヤラれてしまったわたし。
以降うさぎがぴょんぴょん使ってくれ~と言ってくるので使うのだが、句に使うときは、この時に得た感覚や認識を
再利用してるというか、小池さんの兎に便乗してる感じなのですね。

その時に得た感覚や認識というのは、うさぎは傷つかないということ、学校のうさぎは教材用なんだということ。



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転校生は蟻まみれ③ 

2016/03/17
Thu. 22:15

小池さんの句は、話しかけ口調の句が結構多い。(ぽわ~んとしてる間に、ゆみ葉さんに先に書かれてしまったが・・・)
一見、あ、この人やさしい、と思わせるような口調で、実は上から目線でちょっと相手を小馬鹿にしたり命令したり
する。しかも、え?なんて?て聞き直したくなるようなことを言う。日常生活ではぜったいになされない会話だから
こそ目と耳が勝手に反応してしまう。

話しかけられたので答えてみた。


コロボックルを縛ったりしてどうするの
 今きみが、心の中で思い描いたことをするんだよ

通り魔よ坊やに針を持たせるな
 いや、だから、坊やに使用上の注意を読み聞かせるなって

反復はもうしなくてもいいのだよ
 つまりそれって死ねってことやん

悪霊と滝を見るのは愉快だね
 ねえ次はあの人を落としてみようよ

こんなときムササビはよしてください
 じゃあどんなときなら・・・ていうか、わたし今、ムササビなん?

稽古はやめだ君が火星を狂わせる
 おねがいです、稽古だけは続けさせてください、火星を狂わせ、太陽系を狂わせ、たとえ人類が
 滅亡しようとも稽古だけは、稽古だけはぁぁ・・・(小池正博監督映画「人類滅亡」)

客僧よ鳩の視線はやめたまえ
 鳩の視線に耐えられない者は愚か者である

踏切を通るんだよ大和人
 馬の耳に念仏、猫に小判、大和人に踏切

蘭亭の葉のかたちなど知らないよ
 このいきなり感、背景の曖昧さ、嫌いじゃない
 
坊や天保銭をあげようか
 同情するならすぐに使える金をくれ


ヌッと現れてシャッと切りつけてサッと立ち去る。鎌鼬かっ。





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小池正博句集『転校生は蟻まみれ』より② 

2016/02/27
Sat. 23:07

小池さんの第一句集は『水牛の余波』だった。

   水牛の余波かきわけて逢いにゆく   

ロマンチスト小池の片鱗をうかがわせる一句である。
水牛じゃなくて水牛の余波をかきわけてゆくところに静かな熱い思いがある。たぎっている。
もしかしたら水牛の余波をかきわけて逢いにゆくのもまた水牛なのではないか。
そしてその水牛こそが小池さんなのではないか、と思っていたら、第二句集にも牛の句があった。
つくづく牛が好きなんだなあと思う。


   いつもそうだった牛部屋のニヒリズム
   
当たり前だけど牛はなんのために生きているのかなんて考えない。乳を搾り取られるために生かされ、
人間に食べられるために大切に育てられる。しかしその人間も実は生きる意味など分からずに生きて
いるのだから皮肉な話である。それでも何とか分かろうと絶望や失望を繰り返し生きているのだけど、
行きつくところはかなしいかな、その牛部屋なのである。なぜならそこには嫌たらしい欲望はなく、
虚無が在るだけだから。


   天壇にのぼったという牛の骨

そもそも生きる意味などなくて、すべては天命であるという考えに至ることで、そこから生きる希望が生まれ、
ついには死への恐怖もなくなる。それは天から与えられた生を全うすることで神と最も近いであろう天壇に
到達するからだ。神により近づくための媒体が牛なのだろう。
もしもこの句、牛という言葉が入ってなかったら私はこうやって取り上げてなかったと思う。まあ言ってみれば
牛の骨じゃなくても何でもいいわけだし、はっきり言って興味はなかった。でもこうやって牛つながりで
拾い上げると見えてこなかったものが見えてきて、天にも昇る心地こそしないものの、不思議な感じではある。


   川上で心の牛を取りかえる

小難しい言葉が並ぶ句集の中で、小池さんにしては珍しく親切な一句である。ツンデレのデレ句である。
たまにこういうのがあるから読むのをやめられない。
人は表向きは空気を読んでうまくやっているつもりでも精神はどんどん疲弊、摩耗していく。そうなると
一度気持ちをリセットしなければならないのだが、ここでは日常的な「取りかえる」作業がまるで神聖な
儀式のような印象を受ける。「川上で」という言葉に浄化された作中主体の晴れやかさが伝わってくる。
車のハンドルやブレーキには「あそび」というものが必要である。この句にも「あそび」がある。「心の牛」は
結構ぐっとくる表現だと認めたうえで、読み手がその「牛」の部分を触ったり動かしたりしてもこの句自体は
ブレないで機能している。そのためこの句にゆったりとした余裕のようなものを感じるのかもしれない。





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小池正博句集『転校生は蟻まみれ』より 

2016/02/20
Sat. 15:51

   都合よく転校生は蟻まみれ

小池さんの句にときどき現れる少女がいる。
その少女は純真で清らかでけがれのない女の子―――― じゃなくて、そういう女の子を
蟻いっぴき殺さぬような顔で演じられる女の子である。いや、本人は演じてるつもりはないのだ。
だって女の子ってもともとそういう生き物だから。それを小池さんはよくわかってらっしゃる。
いや、そうではなくて、小池さんの中にもそういう少女性があるのだ、と思う。
転校生というのは恰好のいじめの対象になる。蟻まみれになるということは、その前に砂糖まみれという
状況があるわけで、その甘やかさと「都合よく」に含まれる幼稚性がいっそう少女の残酷さを増している。
好きな句である。


  マスコット二つぶらさげ花粉狩

なんかもそうですよね。
マスコット二つぶらさげるあどけなさでもって、花粉狩りというふわふわした凶暴性を振り回している。
ギャップ萌えである。

蛇足かもしれないけど、わたしは基本(笑)いつも真面目で品行方正な小池さんとそんな小池さんの作る
陰湿で意地の悪い句にギャップ萌えしているのだろうと思う。





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欝金記③ 

2015/11/17
Tue. 10:21

   小袖抱かな 彼岸花抱かな
   歯痒い蟹はてっとうてつび透明な
   百体の橋の散り際に逢わな
   脊椎がにおう 呪縛にさきがけて
   飼われて毬の ねむり深々佇ちつくす
   無数に麦 胎(うみ)のかわゆくないひととき

一見してわかる可奈子の句の特徴は、破調であること、上句のあとの一字空けの句が多いこと。
むしろ、破調や一字空けが可奈子にとっての「定型」なのではと思ってしまうほどである。実は可奈子は
その後短歌へ転向するのですが、なんとなくそれも分かる気がします。
一字空いていることにより、読み手はまず与えられた情報をとりあえず理解しようと息継ぎをします。
普通ならそこから場面が一転したり、いわゆる川柳的な飛躍があったりする。でも可奈子の場合、息つぎ
をしたあとに続くのはさらなる孤独の、狂気の深淵なのだ。酸素が足りない・・・。
わたしは可奈子の破調にまったく不快なものを感じない。それどころか一句の中のどの言葉も他の言葉に
置き換えられることは許されない気さえするのだ。可奈子の想いを燃やし尽くした時、はじめて存在を
あらわす髄のようなもので、その髄を吸い尽くしたいと思うのだが、とうていわたしは指をくわえて眺めて
いるだけなんである。可奈子の句に惹かれながらも読み解くことができない。もどかしくてたまらない。だから
ひとり彼岸花を抱く可奈子を、てっとうてつびなどと堅苦しい言葉をあえて使う可奈子を、百本ではなく百体
とした可奈子を、胎児がかわいくないなどと不道徳なことを言う可奈子を、、、、すみません、なんかつい。
感化されやすいタチなんです。可奈子の情念がわたしにまみれ、文章までどろどろになってます。
そういう可奈子をほおっておくことができないのです。(これは偏愛?変愛?)
ただ、これらを川柳と知らずに読んだとしたら、きっと川柳とは思わなかったでしょうね。



   弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ
   抱かれて子は水銀の冷え一塊
   覚めて寝て鱗にそだつ流民の紋
   つぎわけるコップの悲鳴 父が先
   ぬめる碗か あらぬいのちか夜を転がる
   裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ

これは「水俣図」という連作の一部である。水俣病は1950年代、日本の化学工業会社が海に流した
廃液により引き起こされた公害病である。魚介類を摂食することによって原因物質であるメチル水銀が
人間の体内に吸収され言語、運動、ほかさまざまな障害が起こる中毒性中枢神経疾患である。
企業、国にとって被害者は一介の民間人にすぎず、長年見過ごされ、原因が明るみになっても
責任逃れをしようとした。もの言えぬ魚はまばたきをせぬその目で何を見たのか、魚の目はそのまま弱者で
ある被害者の目と重なってじっと堪えつづけているように感じる。メチル水銀は母から胎児へ移行しやすい
という。生まれたわが子が水銀に侵されていると知った母親は一体誰を責めたのだろうか。
社会性川柳というのはむつかしい。川柳に思想を持ち込むことに拒否反応をおこす読者がいるからだ。でも
感情的にならず、その事象と一定の距離を保つことができたなら、その問題を回避できるとも思っている。
可奈子の句はストレートな訴えではなく、静かな怒り、深い悲しみ、癒えることのない苦しみが美しく(美しすぎず)
切実に表現されている。だからもし当事者である被害者がこの句を読んだとしても、よくぞ詠んでくださったと
涙を浮かべるのではないかなあと思うのです。今もって水俣病に苦しめられている方たちがいることを忘れては
ならないですが、これらの句を読んで、現在の日本が抱える原発問題を想像したのはおそらくわたしだけでは
ないはず。


KON-TIKI 5号(発行人松本仁 編集人石田柊馬)を柊馬さんからいただきました。
2001年発行の柳誌で、短歌に転向した可奈子が招待客として川柳20句を寄稿している。可奈子は63歳
ですね。

   ボロ儲に小指が刻まれて甘し
   スヌーピーの双児とキャッチボールせん
   レコードの針をもどして血を濃くす
   執刀ハオトウト菊花展上ル
   アレチノギクの真っ逆さまはきもちがいい

うーむ、なんだかずいぶんさっぱりとされましたね。何十年と生きてきた中で、その時々で自分を見つめ、
短歌を詠むことで内面を消化した結果でしょうか、時代というものもあるでしょうか。なにより川柳らしい
軽みが加わっています。とはいえ、やはり言葉の使い方には隙がなく、一見穏やかに見える句のなかに
可奈子の血がひっそりと流れているのを感じ、またまた胸がドキュンとするのでした。
可奈子はこの3年後、帰らぬ人となりました。

手許の欝金記には、可奈子直筆の1句がしたためられています。

   
   細目さらに細目 三月の空ゆく鯨    可奈子


(おわり)


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欝金記② 

2015/11/04
Wed. 18:57

   ひとりゲリラの鼻血を天に向けながす
   死期未満のてぶくろは剃り落す
   全き齟齬 てのひら二まい生まれきぬ
   モズ盛る すなわち卑怯者の天
   凸面被りさくら吹雪のさくら憑き
   らせん階のてっぺんまでは病んでみよ
   風百夜 透くまで囃す飢餓装束
   まりあが血か たてがみしろき逆相は

やさしくない。定型をものともせず、やさしくない句語が並んでいる。それを読んだわたしの
一部分が痛む。心臓の裏側の朝なのに暗黒で、照らされたくもないのに月光が射してくる。
ああ、可奈子はわたしの痛点を知っているのだな、と思う。
可奈子にとってこの世に生をうけたこと自体が傷だったのか。その広がっていく傷口を隠し
ながら生きていくことの恰好悪さを感じていたのか。生とは戦うことなのか。さまざまな葛藤が
可奈子の情念となって句にさらされることで、一層可奈子を可奈子たらしめていく。
可奈子の句は鋭い刃となってわたしを刺しにくる。でもその刃先はすでに可奈子の血でしとどに
濡れていて、可奈子の血とわたしの血が混ざり、あう。



   莫迦な花ゆえ さばさば死ねる午後の風
   鳥葬やまず 今朝もあしたも裂かれるパン
   地に水母 ほほえみは死にほかならぬ
   刹那いっぴき 柳絮のごとく地の果へ
   春を承知の 賽の1なるその死なる
   はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す
   ほろび絵をつづるは木馬らの裔ぞ
   昼いちめんの笛 致命ゆるぎなし

では、可奈子にとって「死」とはどんなものだったのか。前掲の「生」の句に比べると明るい死が
並ぶ。死ぬ前から「さばさば」と死を受け入れている。能動的で苦しい生に対して受動的であっけない
死とも言える。そこには暴力性も残虐性もない。かといって「ほほえみ」ながら死ぬことへの憧憬も
春に死ぬかもしれないことへの恐怖も感じない。むしろ神がかりの踊りや舞に興じて「うかうか死」
んでもさらりと受け流す余裕さえある。にんげん死ぬ時は死ぬ。ってことでしょうか。あたりまえだけど。
鳥葬→誰かが死ぬ→裂かれるパン→裂かれる肉体→あした→自分が死ぬ→裂かれるパン→・・・の
妄想ループから抜け出せず、耳をつんざく「昼いちめんの笛」に蹂躙され死ぬのも悪くない。

(あといっかい、つづく)





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欝金記① 

2015/10/21
Wed. 17:27

「うこんき」だと思いこんでました。「うこんぎ」でした。
渡部可奈子(昭和13年松山市生まれ←わたしも同じ松山出身なのだ!)が41歳の時の句集です。
その若さで、自分をまた世の中を深く見つめ、その受け止め感じたことを美しくたくましく表現できている句を
前にすると、なんとまあわが句の愚かでお粗末なことよ、この恥さらしよ、と思わずにはおれません。

   バケツ提げる 止観の海を提げる
   環にかえるときは厭離の耳かざり
   虚空にあって血書は神をみていない
   穢土のあゆみの一夜はぬれた髪に寝ぬ
   肋のカノンが聞こえたらふたりの冥府(たび)
   そこなくぐつ そこな笑いの短き有(う)

仏教用語を使いこなしている。可奈子は肺結核を患い療養生活をしていた時期があった。
だからかな、「止観の海」とか「厭離の耳かざり」は、常人ではなかなか気づきえない可奈子独自の
目線で静かに且つ確実に生を見つめている気がします。俗にまみれたわたしなどは、これらの言葉に
これぞ無我の境地とばかりに、にわか可奈子信者になってしまうのである。
可奈子はどのようにして句を作っていたのかなあ。現実をまず自分にしっかり引きつけておいてから
伝えたいことをはっきりさせてから言葉に変換していくという作業をしていたのかな。一語一語に無駄がない。
だからこそ現世はつまり「短き有」と断定することにためらいは必要ないし、その強さに圧倒される。
そこなくぐつ そこな笑いの短き有。かっこいい。



   何を見し眼鏡ぞ春の未明に澄む
   横切るは白い僧形 鷗の海
   目に青葉 快走すべし泥の船
   秋灯火 うまいと呑まむ針千本
   死ぬものかぴえろの愛撫にはなれる
   絵双紙のひとつ目小僧とならば契れ
   花ざかりの鹿の子をえらぶ縊死えらぶ
   吊り橋の快楽をいちどだけ兄と
   零の親しい うんと親しい片目の鮒
   けもの死す しかも図鑑の奥ふかく

流行りのBL読みできそうな。無邪気さの中にもどこからか漂う禁断のにおい「針千本」「吊り橋の快楽」。
罪の意識から抑圧され歪んだ少年愛「ぴえろの愛撫」「片目の鮒」。
葛藤のすえ「縊死えらぶ」「けもの死す」のかなしい結末。だいじょうぶ、愛することは罪ではないのだ。
最後の句からまた最初の句へ戻ると、、、、さらに萌え。妄想だけでごはん3杯いける~。



   革命や 日傘はぬるき血を流す
   姉よりも先に首級をあげるべし
   灯がついて狂いの生家どこにもなし
   弾んだ毬に ははに介錯などいらぬ
   雪舞うや 劣性つもりつもりし末
   正面の鬱 その足は父母に向く
   時計の渕に乞われ潰れる父似の耳
   湯はむずがゆく炊け 血のひとり子

ひとつ屋根の下に住んでいた頃、家族、血というものに嫌悪を抱くなどと思ったことがなかった。
離れて初めて気づく違和、わだかまり。でもそれも本人にしかわからない「狂いの生家」であって、
そんなものは最初からないのかもしれない。
介錯というのは切腹をした人の背後から首をはねる行為。即死させて苦痛を長引かせないようにするのだ。
「弾む毬に介錯はいらぬ」だとまあふつうに面白い。でも「ははに」とチョロっと付け加えるだけで格段に
面白さはアップする。そこにリアリティを感じるからだ。そんなことを考える可奈子というリアリティが
虚のリアリティを強めているんだと思う。血とは揺るぎのないもの。いい意味でもわるい意味でも。
だから人の気持ちは揺らぐ。だから「むずがゆく」炊くんですね、可奈子さん!


(つづく)



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久保田紺句集『大阪のかたち』 

2015/05/29
Fri. 19:27

大阪のおばちゃんは笑ったり泣いたり怒ったり忙しい。つまり、紺さんは笑ったり泣いたり怒ったり忙しい。
ということは、紺さんの句も笑ったり泣いたり怒ったり忙しいのである。
というわけで、紺さんの句を喜怒哀楽に分類してみる。(やや強引)

   (喜)
   いいにおいふたりで嘘をついたとき
   全身がイボになるまで触ってよ
   かわいいなあとずっと端っこを噛まれる


大阪のおばちゃんはタダが好きやけど、タダでは喜びません。
紺さんもタダゴトでは喜ばへんのです。
悪いことしといて喜ぶ。ちょっかい出されて喜ぶ。まさに川柳がヒョウ柄着て歩いてるようなもんですね。
かわいいなあ、紺さん。(すりすり・・カミカミ・・・)


   (怒)
   照らさないでくれせっかくの底を
   泣いているされたことしか言わないで
   火を点けたくせにあわてて消しにくる


理不尽、涙、びびり、許しません。
紺さんの句は人間の弱い部分、言われたくない部分をピシャリと突いてくる。ただ突かれた側がそれを痛いと
感じないのは、自身を客体化することで、作者が自分自身に言っているのか一般論として言っているのか、
主体を曖昧にしているせいかもしれない。それは作者と読み手の位置が同じ高さにあるということでもある。
本当のところ、怒っている句はほとんどなく、無理矢理「怒」に分類した次第。



   (哀)
   笑っているから忘れていないはず
   スイッチが切れるだあれも切ってない
   着ぐるみの中では笑わなくていい
   かわいそうと言われた日からかわいそう
   ふたつ揃ったらさみしいことになる
   傘は乾いてくるくる回ったりもする


実は「哀」の句はとても多かった。他の方が選んでいる句をなるべくカット。
紺さんの句には、よく〈もうひとりの自分〉が登場する。姿は見えない。けれど笑っている紺さんの
すぐそばにいる。〈カナシミ〉は気づいてほしくて紺さんの周りをうろうろしているのかも。
紺さんのカナシミはわたしのカナシミであり、にんげんのカナシミなんである。


   (楽)
   父さんは元気で生まれ変わらない
   ショッカーのおうちの前の三輪車
   股間の葉っぱ頭頂部の葉っぱ
   印鑑のケースの中でずりずりする
   こんなとこで笑うか血ィ出てんのに
   唐揚げになるにはパンツ脱がないと
   眼鏡かけてから選んでいる眼鏡


紺さんはオヤジ(お父ちゃん)の話をよくする。どーしようもない(わたしが言うか?)人やけど、
そのどーしようもなさを楽しんでいる。紺さんは自分の病気でさえ他人事みたいに楽しそうに話す。
紺さんはどんな時でもふつうのことからちょっとだけへんなとこを見つけるのがとても上手だ。
だから紺さんのまわりにはへんな人が多い。



と、喜怒哀楽に分けながら、どうにもそれらに収まらない句がぎょーさんあるのです。
ということで新たにカテゴリを設けました。
それが「悪意」。実は上に揚げた句も一皮剥けば悪意なんですけどね。


   (悪意)
   許さないままで笑っていられます
   うつくしいとこにいたはったらええわ
   伏見稲荷の鳥居出てくるソーセージ
   一輪車のうしろに乗せてあげましょう
   前向きな蟹でとっても食べにくい
   母がいるこりこりすると思ったら
   家中の蓋を集めて家出する


人はけなしながら褒めるのがふつうだけど、紺さんは褒めながらけなすからね。こわいわ。笑てるし。
紺さんのほくそえんでいる姿が目に浮かぶ。
悪意の中からさらに「ずるい」を抽出。(誰か止めてくれー)


   (ずるい)
   どこの子やと言われたときに泣くつもり
   白く塗ったらしあわせに見えるやろ
   謝りに襟の小さい服を着て
   泣き止めば私を置いてゆくだろう
   詰め合わす開けたらきみが泣くように


3句目、大好きです。ただこのずるさは本当にずるい人にしかわからないのかもしれません。
作者の中にもおんなのズルさがあり、それを自覚していてあっさりと自己批判まで持っていく。
そうやって書かれた句の他人事ではない私性に読み手は安心感や共感を覚えるのだと思うのです。


実際はもっと振り分けたんです。たとえば「いとしさ」と「せつなさ」と「心強さ」と。もうねキリがないので
やめました。十分楽しんだし。だもんで最後にどんとまとめて。



   (その他)
   シャワーを浴びてちょっと汚して帰ります
   捨てたのに環状線の網棚に
   くださいと頼むほどではないんだな
   しっぽ振るまでずっと頭をなでられる
   食パンのだんだん厚くなる家族
   春になるたび切る人形の前髪
   目が合うとお母さんだと思われる
   ぎゅっと押しつけて大阪のかたち


紺さんをぎゅっと押し付けて、なんか色んなものが飛び散ったような1冊でした。



    もういやと鳴けばもういやという名前    久保田紺




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上野勝比古句集『フロウ』 

2015/05/08
Fri. 15:02

勝比古さんは京都番傘に所属されている伝統川柳のお方です。伝統川柳とは無縁のわたしですが、
ふらすこてん句会に通うようになり、そこで勝比古さんとお会いしました。5年前に出された句集ですが、
今年増刷された(すごい!)ものをいただきました。まずは素敵な装丁にしばし見とれ(何色というのでしょうか)
触れ(ちょっとザラザラしている)ながら、昭和の二枚目俳優のような勝比古さんを思い浮かべながら
読みました。


   原爆の広場で鳩の豆を買う
   ためらいの傷に肌色のサビオ
   まな板の音でかぼちゃとすぐ判る
   古本屋よく考えて雑に置く
   市役所と匂いが違う村役場
   片方の傘はすぼめて先斗町
   ぴょんぴょんとたすき待つ子が跳ねている
   園長のエール赤勝て白も勝て
   乙女らは笛吹きながらでも笑う
   不揃いを売りにしている無農薬
   お口の恋人噛むだけ噛んで捨てられる
   狼は悪いと決めている童話



なるほどなあと思う。いわゆる「見つけ」というやつです。なんのひねりもてらいもありません。
わたしが作る川柳はどちらかと言えば、そこにないもの(つまりは嘘)を作り上げるという作業で、
まあ言ってしまえば詩集に「死臭」と刺繍してみようかねという感じ(どんな感じだ)なのです。
ひねり?てらい?思いっきりありますし。
勝比古さんの句のように、普段見ているものだけど見えていないものを見つけるというのは、無意識を意識
するということで、なかなかどうして大変そうである。ふと目にとまるものならすでに誰かが詠んでいるでしょうし。
で、自分はそういうことができないため、こうやって楽してスッキリ感だけ味わってホクホクしているのです。




   女房の横で枕を抱いて寝る
   飲まいでもええのが青汁飲んでいる
   出来る子は放っておいても良くできる
   声かけて子に睨まれる参観日
   相撲より日本語仕込むのが上手い
   挨拶にしては気になる長いハグ
   時給より高い綿菓子ねだられる
   嘘つかぬだけでこの頃ほめられる
   指揮棒で上手に客を眠らせる
   嬉しくはないことはない誕生日
   駅前で犬の帰りを待っている
   大柄の姉に寝押しをしてもらう


こちらは、読んだ後にふっと口元がゆるんでしまう句。日常に潜む皮肉の大名行列や~~。
あかん、もっとまじめに書こ。といってもこういう句に説明はいらないですよね。
ぼやきの中に寂寞たるものが少々混じっている句が個人的好み。




   薄皮のまま少年のきゅうり揉み
   雨の日の蠅虎(ハエトリグモ)は点である
   制服が来て元栓を開けて行く
   シャネル一瞬にして耳朶を削ぐ


ふらすこてんに投句されたもの。器用である。「わたしは伝統やから・・・」と言われる勝比古さんですが、
ここでは番傘の句では見えなかった感情が異質にあぶりだされ、読者に想像する愉しみを与えてくれる。
それは少年の冷やかさであり、雨の日の無気力な自分であり、気づかないうちに網羅されつくされた規制や
豊かさへの対価の怖さである。
目を凝らして探した無意識とは違う、言葉のイメージと作者の感覚が裏切り合う中で生まれた新しい世界
だろうと思う。




十四字詩なんていうものもある。


   懐紙でぬぐう少年の五指
   1・2の3で課長は死んだ
   思った程は誰も泣かない
   過去完了は少し後引く


おもしろい。余分なことを言わない潔さが勝比古さんに合っているような気がします。



悲観からは何も産まれない/すべては楽観から想像される/だから滑稽に見えても/流れに棹さしてみる/
無駄な抵抗かもしれないが/やってみる価値はある/流す 流れる 流される/どれも結構むつかしい/勝比古


勝比古さん、上手に流されておられると思います・・・・。




   また誰か進軍ラッパ吹いている     上野勝比古







  

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笹田かなえ句集『お味はいかが?』 

2015/04/06
Mon. 15:49

   またひとつ椿に咲いてくれました

椿に椿が咲くのは自明のことだ。では椿に何が咲くというのか。「咲いてくれた」とあるからには咲いてうれしい
もの。たった一字の助詞「に」を使うことでありきたりの出来事が見たことのない世界に変わってしまう。
読み手はその不可解な世界に無関心ではいられない。



   蛇いちご蛇になったら食べられますか
   紅花のあかくあかくと搾られて
   サルビアの蜜サルビアの口で吸う
   木の椅子の木の背もたれの木のくぼみ

一句の中に同じ言葉がいくつか入っている句が多い。
その言葉への思いというよりは、その物を慈しむあまり、そうなってしまうというような印象を受ける。
やさしさと愛情が17音からこぼれおちる。ぽたりぽたり。



   少しだけ濁ってやさし金魚鉢

そうそう、金魚鉢は少しくらい濁ってるほうがいいんだよね。
・・・・なんて思ったことない。
でも、家族や職場という小さな世界では何もかも見えないほうが幸せということも多い。
ってことで魚意、否、御意。



   サーカスがくるよさみしいひとがくるよ

喜劇の裏にぴったりと張り付いているものはいつの世も涙であり、サーカスの舞台上の笑顔の裏側に
あるものもまた然り、である。
この句に言いようのない痛みを感じるのは、わたしもいつのころからかサーカスが見れなくなったから。



   うさぎ抱くころしてしまいそうに抱く

「ころしてしまいそうに」に「ころしてしまわないように」という温かい気持ちと「ころしてみたい」・・・
とまでは思わなくても「このまま少し力を加えたら死ぬんだ」というヒヤリとした気持ちが混在する。
小さくて壊れやすい命を抱いたときのリアルな感情、誰もがいだいたことのあるはずの。




   不器用でのん気できれい薬指
   待ってと言って待ってもらってもどかしい
   すきだらけの手に溶けていくぼたん雪
   くちびるを切るかもしれぬ草の笛
   飛べるかもしれない秋の扇風機
   血の薄い家へと続く石の門
   適当にって言われた雨の匂いした
   なまざかななまあたたかく売れ残る
   オルガンに脂が浮いてくる深夜
   押し花のあっかんべェーと咲いている
   引き出しが乙女の段で引っかかる
   夕焼け小焼け誰がお空をころしたの
   紫の椅子抱かれたら抱き返す



かなえさんは水っぽい。体から水の音がする。そして雨の日が似合う。
かなえさんの句は透明だ。普段目には見えない深いところにある情念を詠んでもさらさらと流れていく。
雪解けの春の小川のように。



   「果物」と書くときちょっと手が濡れる    笹田かなえ









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角田古錐句集『北の変奏曲』 

2015/03/02
Mon. 10:38

   神様も片手は少し汚れてる
   牛丼は負けた戦の味がする
   右の手はホントは他人だと思う


これらはあくまでも作者の個人的な意見。少なくともわたしはそんな風に考えたことはなかった。
それなのに、これらの句を読んで「そんなものかもしれない」と思うのです。



   海を見て海だと妻が言っている
   年越して去年と同じ犬に逢う
   仏壇の裏をしばらく見ていない


なんなのでしょう。この自然体。誰もが経験してるはずの日常。
砂時計の砂が落ちていくみたいに一瞬で流れ、あっという間に見えなくなってしまうコトたち。
その流される一瞬を掴み取っただけのこと。でもその「だけ」がなかなかできることではないんだなあ。
些細なことがしずかに膨らみ、些細なことに収まりきらなくなる感覚。



   通勤電車で金太郎飴になってゆく
   寝違えた首粛々と街をゆく
   しみじみとポルノ映画で聴くショパン
   日が暮れて迷子だったんだと気付く


先ほど掴み取った一瞬を少しだけ見方を変えるだけでこういう川柳的川柳になるんだ。
共通認識としての事実に主観がはいることによって、作者にとっての真実があらわれる。
生きるということ、生きていくということのやるせなさに途方に暮れる作者があらわれる。
川柳とは事実に隠された真実をひとつずつ明らかにしていく文芸と言えるのかもしれません。



   指先の汚れに気づくご焼香
   バラ色の封書で届く他人の死
   葬儀屋が春の挨拶して通る
   寒い寒いと転がってゆくお葬式


伊丹十三監督の映画『お葬式』みたい、と思う。
お葬式というおごそかで重々しい儀式を巧みにおちょくっている。
こういったことを面白がれるのも川柳人にとって大事な才能なのだ。



   露っぽい女と昆虫記を覗く
   自然薯のような女とレレレのレ
   身内だと言い張るモジリアニの女


古錐さんの(?)女はふしぎだ。湿っぽかったりねばねばだったりする。
物憂げな表情で身内だと言い張ったりもする。
昆虫記を一緒に眺めたり、レレレのレったりどこか妖しく怪しい時間を共有したくなるのです。



   納豆とモーツァルトを掻き混ぜる
   すりこぎは凶器じゃないと言い聞かす
   いつ何処で死ぬのか世界地図で見る
   行き止まりなのにテクテクテクテクテク
   ちちははが挟まっている非常口



古錐さんとは一度、青森でお会いしました。72歳で背筋がピンとしていて、笑顔の素敵なおじさまだなあ
という印象が残っています。
あとがきに『信条という程でもないのですが、日常を通じて私は常に川柳を楽しもうと思っています。
伝統句も革新の句もそれぞれの良さがある訳で、また難解な句もそれを読み解く楽しさがあり、句会や
柳誌で色々な川柳に出会うことは大いなる楽しみとなっています』とあります。
そのような川柳に対する謙虚で柔軟な向き合い方が句にしなやかさをあたえているのだなあと思いました。


   絶叫をするには人が多すぎる      角田古錐










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飯田良祐句集『実朝の首』 

2015/02/16
Mon. 10:37

わたしは飯田良祐さんを知りません。
ただ、亡くなったあとに良祐さんについて書かれたものを読んだり、今でも句会のあとの飲み会で良祐さんの話を聞く
ことはあり、わたしにとって良祐さんは、いわば「伝説の人」なのでした。

句を読む時は作者にまつわる情報は排除して読むべきという意見があります。でもそんなことは不可能だと思って
読みました。ところが不思議なことに読み進めているうち作者が自ら命をたったという事実が頭から消えて一気に
読んでしまったのです。
そのくらい句に勢いがあり、惹きつけられる言葉の強さがあったのでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・



   ほうれん草炒めがほしい餓鬼草紙
   水虫によく効くという妖精
   父はまだ前田のランチクラッカー
   カマボコ板も私有財産である
   アスパラベーコンはふとモジリアニったりして

深い意味があるのかな。「深い意味なんてないんでしょ」と思わされてるだけかもしれない。
良祐さんの句は体言止めが多い。わたしは苦手である。言い切ることに自信がないからだ。
それを良祐さんはいとも簡単に言い切れる人。
自信があるとかないとかではなく、読み手に媚びない、よりかからない川柳を書く人なのだと思う。



   親族の記帳のあとの磨りガラス

時間の経過とともに視点が静かにずらされていくショートムービーのような美しさ。
死者からの目線?磨りガラスの向こう側に彼岸はあるのかもしれない。



   母一人子一人で棲む腋の下
   殻つきのまま落下する私生児

緊張感のなかにもちゃんとユーモアを盛り込んでくる感性はもちろんのこと、それを昇華せしめる職人技よ。
哀しい。けど面白い。けどやっぱり哀しい。



   母死ねとうるさき月と酌み交わす
   ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ

この句を読んで〈愛〉〈憎〉のどちらを感じるかと言えば、わたしは〈愛〉を感じる。
上五の強い措辞を打ち消す力をそれ以下の文言に託している。それは無意識下で行われたものなのではないかな。
日常生活では気づかなかった本当の思いに気づかせてくれるのが川柳であり、また気づいてしまった本当の思いが
書けないのもまた川柳なんだと思う。



   経済産業省へ実朝の首持参する
   人間宣言というなら金券ショップ
   中華味でよく冷えた愛国心

社会、権力、制度等に思うことはあるもののそのまなざしは冷静で、そこに笑いが加味されここちよい嫌味となって句に
表現される。



   茶の間から雪隠までの猫車
   猫町に二つの月と猫車

猫車シリーズ。こういうひとつの言葉で連作する場合、その掬い取ってきた言葉(この場合、猫車)は作者に
なにかを喚起させるものがあったにちがいない。それはそこに投影された自分、と思う。
土や石を運び泥のこびりついた猫車に自分の姿を見ている良祐さん、を見ている月とわたし。



   ビニール袋の中のカサカサの勃起

なぜ「勃起」という言葉を使ったのか。わざわざこんな意味性の強い言葉を使う必要はなかったはずである。
それゆえに「カサカサの勃起」は良祐さん自身であり、自身への嘲笑、侮蔑を強く感じる。



   ガニマタでポテトサラダが座る席
   男娼が大外刈りの串カツ屋
   稲刈りが始まる通天閣展望台


良祐さんはこれらの句を大衆演劇の芝居小屋があった大阪の新世界という街を思い浮かべながら、その時のシーンを
ただ素描しただけと自解する。
が、これはもうしっかり川柳である。はじめから世の中を見る目が川柳というフィルター付きであるならば、わたしもその
目が欲しい。
もっとも「川柳とはこうやって書くんやで」と遠回しにだけど言いたい良祐さんの思惑もちらちら見えないこともないの
だけど。



   庭のない少年からの速達便

逃げ場のない少年の叫びは届かなかったのか。



   終電まで続く死神とのアヤトリ

アヤトリを終わらせたのは誰なのか。


   
   永遠に割れない鏡の前の舞

苦しくとも舞い続けることはできなかったのか。


最後の3句は良祐さんが自死されたと知って読むからそういう読みになってしまっただけのことである。
きっと良祐さんはそんなつもりで書いたのではないと怒ってはることでしょう。



   迂回路にキュウピイさんの行きだおれ   飯田良祐




・・・・・・・・・・・・・・


実際に良祐さんとかかわった方たちにとって、良祐さんの句に向き合うことはさぞかしつらい作業だと思います。
良祐さんの人となりも川柳の何たるかも知らないわたしが好き勝手なことを書いて不愉快に思われた方が
いらっしゃっるやもしれません。
それでもこうやって句集にしていただき、飯田良祐という川柳作家がいたのだということ、またその川柳が
飯田良祐を知らないわたしたちの中に残っていくことはすばらしく価値のあることなのだと、強く、思いました。

                                                           おわり










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2023-03