つづき・・・?
2015/03/28
Sat. 19:46
前回の記事で、次回に続きます。と書いたものの、この後わたしは一体何が書きたかったんでしょうか。
というくらいあの日のわたしとの温度差にとまどっている今のわたし。
筆がまったく進まない、いやキーボードがまったく進まないよぅ。
とにかくなにか書こう。
「読み」は恥ずかしい。を克服するために恥ずかしいことをしてみます。
これは、川柳カードの編集人である小池正博さんがブログに載せられていた、飯田良祐さんの句の鑑賞文です。
お白粉をつけて教授の鰊蕎麦 飯田良祐
「白粉」「教授」「鰊蕎麦」、いずれも日常にある物や人である。別に異常なものではない。
けれども、この三つの単語を繋ぎあわせると、そこには尋常でない光景が浮かび上がる。
白粉をつけているのは教授だろう。女性の教授とも考えられるが、男性教授が白粉をしていると読んだ方が
おもしろい。男でも化粧をすることはあって、たとえばニュースキャスターは男性であってもテレビ映りのために
薄化粧をすることがあるらしい。この場合は職業目的であるが、この句の教授は何のために化粧しているの
だろう。しかも、その教授が鰊蕎麦を食べている。
「お白粉をつけた教授が」ではなくて、「お白粉をつけて」で少し切れる。作者の視線はまず白粉に向けられている。
川柳では食べ物などの日常的なものをよく取り合わせる。良祐の句にも「大福餅」「串カツ」「クラッカー」などの
食べ物が出てくる。衣食住は生活詩としての川柳には不可欠の素材であって、しばしば使われる。
人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という
日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。
お白粉をつけているのは教授で、しかも男性教授だと解釈しています。また、少しの「切れ」を見逃さず、
お白粉→鰊蕎麦という視線の移動を異次元の世界→日常と捉え、さらにそれをヴァージョンアップ→ダウン
というおもしろい表現でこの句を説明されています。
なるほどなあと思いました。あやうく、そうだそうだと手をたたきそうになりました。
が、違うんです。ここなんです。わたしは違う解釈をしてたんですね。
わたしの解釈なんかとか、おこがましいとか、恥ずかしいとか、STAP細胞とか、あります!
(まじめな話をすると恥ずかしくてふざけること、あります)
だからします。立派な読みの後、だけにあえてします。
わたしはこの句を読んだとき、お白粉をつけているのは鰊蕎麦の鰊だと思ったのです。教授にももちろん立派な
功績を残している人はいるでしょうけど、ここでは肩書のみが闊歩する教授。作者は「教授」という言葉が持つ
怪しげなカリスマ性をうまく利用し、不条理だけど特別扱いが暗黙の了解でまかり通っている旧態依然とした
社会を浮かび上がらせています。鰊蕎麦の鰊には頭がありません。ならばそのない頭にさえお化粧を
ほどこす人間のかなしい性がさらにそこに横たわります。
「お白粉」「教授」「鰊蕎麦」の言葉の持つ象徴的なイメージからの飛躍はないものの、その共有されたイメージが
読み手にサラリと享受され軽い悪意を抱かせるのかもしれません。
ね、恥ずかしくないでしょ。
嘘です。これを読まれている皆さんのPCが今すぐぶっ壊れて欲しいくらい恥ずかしいのです。
が、です。このように小池さんの「読み」とはまったく違いますよね。
でもそれってすごくおもしろいと思うんです。たった17音ですよ。いや、17音だからこそこれだけ違う世界を
構築できるんです。
作者である良祐さんは、どういう意図で作られたかはわかりません。ですが、それはそれ。そして、これはこれ。
なんですよね。もしも他の方に聞いたら、また別の解釈があると思うんです。わたしはそれをもっと聞きたいです。
あんなに自分の句をこう読まれたいと思っていたひとりよがりのわたしはどこへ行ったんでしょうかね。
変化でいえば、読みをする時、まるで自分がその句を作ったような気持ちになっていることに気づきました。
と同時に、作句するときは反対に自分が読み手になっているような不思議な感覚を味わっています。
そのせいかどうかわかりませんが、自分の作る句が少しずつ変わってきたような気がします。
おもしろいです。川柳が。自分が。変わるんだなあと。
で、結論。やっぱり「読み」は大事。
え?なんて?
だから、「読み」は大事。
で?
以上。
以上・・・この期に及んで!?
そう。何ならもう一回言おか?声を鯛にして。
え?声を鯛にして?(聞きたい)
そう。声を鯛にして言いたい。「読み」は大事ですたい。
熊本弁やし。(そろそろ終わりたい)
ところで、アンタ誰やねん。
わたし?わたしは・・・・鰊やけど。
そうか、じゃあ声を鰊にしてもういっ・・・
もうええわ。
どうも、ありがとうございました~~。
とりとめもなく書いてしまいましたが、前回の続きになっているでしょうかね?(ひゃ~~~)
というくらいあの日のわたしとの温度差にとまどっている今のわたし。
筆がまったく進まない、いやキーボードがまったく進まないよぅ。
とにかくなにか書こう。
「読み」は恥ずかしい。を克服するために恥ずかしいことをしてみます。
これは、川柳カードの編集人である小池正博さんがブログに載せられていた、飯田良祐さんの句の鑑賞文です。
お白粉をつけて教授の鰊蕎麦 飯田良祐
「白粉」「教授」「鰊蕎麦」、いずれも日常にある物や人である。別に異常なものではない。
けれども、この三つの単語を繋ぎあわせると、そこには尋常でない光景が浮かび上がる。
白粉をつけているのは教授だろう。女性の教授とも考えられるが、男性教授が白粉をしていると読んだ方が
おもしろい。男でも化粧をすることはあって、たとえばニュースキャスターは男性であってもテレビ映りのために
薄化粧をすることがあるらしい。この場合は職業目的であるが、この句の教授は何のために化粧しているの
だろう。しかも、その教授が鰊蕎麦を食べている。
「お白粉をつけた教授が」ではなくて、「お白粉をつけて」で少し切れる。作者の視線はまず白粉に向けられている。
川柳では食べ物などの日常的なものをよく取り合わせる。良祐の句にも「大福餅」「串カツ」「クラッカー」などの
食べ物が出てくる。衣食住は生活詩としての川柳には不可欠の素材であって、しばしば使われる。
人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という
日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。
お白粉をつけているのは教授で、しかも男性教授だと解釈しています。また、少しの「切れ」を見逃さず、
お白粉→鰊蕎麦という視線の移動を異次元の世界→日常と捉え、さらにそれをヴァージョンアップ→ダウン
というおもしろい表現でこの句を説明されています。
なるほどなあと思いました。あやうく、そうだそうだと手をたたきそうになりました。
が、違うんです。ここなんです。わたしは違う解釈をしてたんですね。
わたしの解釈なんかとか、おこがましいとか、恥ずかしいとか、STAP細胞とか、あります!
(まじめな話をすると恥ずかしくてふざけること、あります)
だからします。立派な読みの後、だけにあえてします。
わたしはこの句を読んだとき、お白粉をつけているのは鰊蕎麦の鰊だと思ったのです。教授にももちろん立派な
功績を残している人はいるでしょうけど、ここでは肩書のみが闊歩する教授。作者は「教授」という言葉が持つ
怪しげなカリスマ性をうまく利用し、不条理だけど特別扱いが暗黙の了解でまかり通っている旧態依然とした
社会を浮かび上がらせています。鰊蕎麦の鰊には頭がありません。ならばそのない頭にさえお化粧を
ほどこす人間のかなしい性がさらにそこに横たわります。
「お白粉」「教授」「鰊蕎麦」の言葉の持つ象徴的なイメージからの飛躍はないものの、その共有されたイメージが
読み手にサラリと享受され軽い悪意を抱かせるのかもしれません。
ね、恥ずかしくないでしょ。
嘘です。これを読まれている皆さんのPCが今すぐぶっ壊れて欲しいくらい恥ずかしいのです。
が、です。このように小池さんの「読み」とはまったく違いますよね。
でもそれってすごくおもしろいと思うんです。たった17音ですよ。いや、17音だからこそこれだけ違う世界を
構築できるんです。
作者である良祐さんは、どういう意図で作られたかはわかりません。ですが、それはそれ。そして、これはこれ。
なんですよね。もしも他の方に聞いたら、また別の解釈があると思うんです。わたしはそれをもっと聞きたいです。
あんなに自分の句をこう読まれたいと思っていたひとりよがりのわたしはどこへ行ったんでしょうかね。
変化でいえば、読みをする時、まるで自分がその句を作ったような気持ちになっていることに気づきました。
と同時に、作句するときは反対に自分が読み手になっているような不思議な感覚を味わっています。
そのせいかどうかわかりませんが、自分の作る句が少しずつ変わってきたような気がします。
おもしろいです。川柳が。自分が。変わるんだなあと。
で、結論。やっぱり「読み」は大事。
え?なんて?
だから、「読み」は大事。
で?
以上。
以上・・・この期に及んで!?
そう。何ならもう一回言おか?声を鯛にして。
え?声を鯛にして?(聞きたい)
そう。声を鯛にして言いたい。「読み」は大事ですたい。
熊本弁やし。(そろそろ終わりたい)
ところで、アンタ誰やねん。
わたし?わたしは・・・・鰊やけど。
そうか、じゃあ声を鰊にしてもういっ・・・
もうええわ。
どうも、ありがとうございました~~。
とりとめもなく書いてしまいましたが、前回の続きになっているでしょうかね?(ひゃ~~~)
[edit]
読みについて。
2015/03/23
Mon. 17:36
川柳の読みって何なのでしょうと、近ごろ考えます。
川柳は読みの時代に入った、と言われ久しいですが、わたしは川柳を始めて以来ずっと「読み」をして
きませんでした。
それはきちんと「読み」をしてくれる人がいたし、それはわたしの役割ではないと思っていましたから。
第一、川柳を「読む」ことは恥ずかしいのです。
なぜかというと自分の無知さ、考えの浅はかさ、語彙力のなさ、価値観、、、あげればきりがありませんが、
とにかく自分というものがそこに出てしまうからなんですね。
つまり「読み」をすることで、さらに自分を「読まれる」みたいなおそろしさといいましょうか。
だから、こうやってブログで他の方の句の鑑賞をするなんてことは、つい数か月前まで思ってもみなかった
ことなんです。自信なんてまったくないです。恥ずかしいです。逃げ出したいです。
そんな後ろ向きな姿勢でなんでやってるのかと問われれば、魔が差したとしか言いようがなく、いや~、
魔ってこわいですね~、おそろしいですね~って。それじゃあ、さよなら、さよなら、さよならって立ち去ろう
としたら、あれ、行かれへん、と振り返ったら、天使の顔した悪魔がスカート踏んづけてるんですよね。
そんな思いでブログを書いていた時、某柳人と「読み」について話すことがあり、少しずつわたしの中で
「読み」に対する考えが変わってきたのでした。
それは川柳の読みに正解はない、ということ。
たとえ自分が意図したものと違った解釈だったとしても、自分の句に立ち止まって考えてくれる人がいて
くれたことが喜びなのだということ。
その結果として幾とおりもの読みが存在することは当然で、それこそが句の持っている力なのだということ。
これらは頭では分かっていたことでした。でもわたしの中に「そうは言ってもやっぱり、できるだけ作者の意図を
読みとってあげたい」という気持ちが強くあったのです。それはわたしが読みをされる場合、自分の思うところの
読みをしてもらったらとてもうれしかったし、全然違う解釈をされた時にちょっとがっかりしたりしてたからなん
ですね。
ただそこにはひとりよがりの一瞬の快感のみを求めていた、本当に恥ずかしいほど小さく、つまらない
自分しかいなかったのです。
ややっ、うっかり真面目なことを書いてしまいました。あいすみません。
と言いながら、次回につづきます。
川柳は読みの時代に入った、と言われ久しいですが、わたしは川柳を始めて以来ずっと「読み」をして
きませんでした。
それはきちんと「読み」をしてくれる人がいたし、それはわたしの役割ではないと思っていましたから。
第一、川柳を「読む」ことは恥ずかしいのです。
なぜかというと自分の無知さ、考えの浅はかさ、語彙力のなさ、価値観、、、あげればきりがありませんが、
とにかく自分というものがそこに出てしまうからなんですね。
つまり「読み」をすることで、さらに自分を「読まれる」みたいなおそろしさといいましょうか。
だから、こうやってブログで他の方の句の鑑賞をするなんてことは、つい数か月前まで思ってもみなかった
ことなんです。自信なんてまったくないです。恥ずかしいです。逃げ出したいです。
そんな後ろ向きな姿勢でなんでやってるのかと問われれば、魔が差したとしか言いようがなく、いや~、
魔ってこわいですね~、おそろしいですね~って。それじゃあ、さよなら、さよなら、さよならって立ち去ろう
としたら、あれ、行かれへん、と振り返ったら、天使の顔した悪魔がスカート踏んづけてるんですよね。
そんな思いでブログを書いていた時、某柳人と「読み」について話すことがあり、少しずつわたしの中で
「読み」に対する考えが変わってきたのでした。
それは川柳の読みに正解はない、ということ。
たとえ自分が意図したものと違った解釈だったとしても、自分の句に立ち止まって考えてくれる人がいて
くれたことが喜びなのだということ。
その結果として幾とおりもの読みが存在することは当然で、それこそが句の持っている力なのだということ。
これらは頭では分かっていたことでした。でもわたしの中に「そうは言ってもやっぱり、できるだけ作者の意図を
読みとってあげたい」という気持ちが強くあったのです。それはわたしが読みをされる場合、自分の思うところの
読みをしてもらったらとてもうれしかったし、全然違う解釈をされた時にちょっとがっかりしたりしてたからなん
ですね。
ただそこにはひとりよがりの一瞬の快感のみを求めていた、本当に恥ずかしいほど小さく、つまらない
自分しかいなかったのです。
ややっ、うっかり真面目なことを書いてしまいました。あいすみません。
と言いながら、次回につづきます。
[edit]
カッコイイ!
2015/03/17
Tue. 17:14
先日、本屋さんをうろうろしていると、明らかに違和感を覚える人が立ち読みしていたんですね。
それは浮浪者風な男の人で、何をもって浮浪者風などと失礼なとは思うのですが、それはまあ
着ているものとか、大きな荷物とか、違ってたらほんますみません。
で、そこ、洋書コーナーだったのですが(わたしは徘徊しながら迷いこんだだけなんですけどね)
何やら真剣に読んでいるのです。しかもブツブツ音読してるっぽい。
うわー、あの人英語喋れるんだ!!すごーい。
と俄然興味が湧き、ちょっと近づいてみる。
残念ながら、あまりに流暢すぎるのか、あまりにデタラメすぎるのか、まったく聞き取れず・・・。
にしても何を読んでるのかと見ると、表紙はあのスティーブ・ジョブズ氏。
そうか、このおじさんもとはIT企業の社長さんで、かつてはバリバリに一世を風靡したがバブルがはじけすべてを
なくしたのだ。でも今でも気になるんだスティーブが。そうか会いにきたんだジョブズに。そしてジョブズを追いかけ
ていたあのころの自分に。と妄想は膨らむわ、だんだんおじさんがカッコよく見えるわ、ダイジョブスか、わたし。
というわけで、わたしの中の、カッコイイ!定義があることにその時気づいたのです。
「英語を話せる日本人は誰しもカッコイイ」
その数日後、ある商店街を歩いていると、開店祝いの生花のスタンドが飾ってあるお店があり、へ~、と
通りすぎようとしたその時、そのお祝いの花を引っこ抜いてる人あり。
それはいかにもあなたお店の関係者じゃないでしょって感じのおばちゃん。
とても気になったのですが、立ち止まって見るわけにもいかずそのまま通りすぎたその数分後、花を手に、
何食わぬふうに歩いているさっきのおばちゃん発見。「やっぱり。」と同時になぜか「かっこええわ~。」
と思ってしまったわたし。っとここで新たな定義。
「堂々と一人で悪いことができる大人はカッコイイ」
こんな風にカッコイイ人やことなんかが、この世に溢れているわけですが、当然川柳をやっていても、
カッコイイ!に出会うことがあります。それは言葉だったり、言い回しだったりするのですが、
そのひとつが、「すべからく」 キュン。
「すべからく、きみが好きだ。」 キュンキュン。
すべからく今夜はたまごかけごはんです。すべからく逃走中。すべからく皺である・・・嗚呼、すべからく悶絶。
意味とか用法とかどうだっていいんです。そんなものは豚に真珠だし、豚にすべからくなんです。
すべからく意味わかんないって言われてもすべからく困るべきもなく、カツ丼食べながらすべからく壁ドン
されちゃいました、みたいなすべからく世界はすばらしいものなのであります。
これまでにも、いくつかの「すべから句」に出会ってますが、そのたびに落ちて、堕ちて、墜ちまくってます。
いや、ほんまはいかんのですよ。
「すべからく」にほだされるようではね。
すべからくきちんと句の全体を見るべきなんですよ。そこは重々承知の助なんです。
えーい、しょうがない。こうなったら自分で「すべから句」を作ってしまおうじゃないか。
そうすればこんなもんかとこれ以上落ちて堕ちて墜ちまくることもなくなるんじゃないか。と。
すべからく青年森を受胎する ようこ
戸を閉めよすべからく世を捨てながら
すべからく高2男子の肺活量
末裔のワンタンメンのすべからく
すべからくくちをじょうずにうごかして
あゝ愛しきすべからく。 すべからく人生よ、 さようなら。
それは浮浪者風な男の人で、何をもって浮浪者風などと失礼なとは思うのですが、それはまあ
着ているものとか、大きな荷物とか、違ってたらほんますみません。
で、そこ、洋書コーナーだったのですが(わたしは徘徊しながら迷いこんだだけなんですけどね)
何やら真剣に読んでいるのです。しかもブツブツ音読してるっぽい。
うわー、あの人英語喋れるんだ!!すごーい。
と俄然興味が湧き、ちょっと近づいてみる。
残念ながら、あまりに流暢すぎるのか、あまりにデタラメすぎるのか、まったく聞き取れず・・・。
にしても何を読んでるのかと見ると、表紙はあのスティーブ・ジョブズ氏。
そうか、このおじさんもとはIT企業の社長さんで、かつてはバリバリに一世を風靡したがバブルがはじけすべてを
なくしたのだ。でも今でも気になるんだスティーブが。そうか会いにきたんだジョブズに。そしてジョブズを追いかけ
ていたあのころの自分に。と妄想は膨らむわ、だんだんおじさんがカッコよく見えるわ、ダイジョブスか、わたし。
というわけで、わたしの中の、カッコイイ!定義があることにその時気づいたのです。
「英語を話せる日本人は誰しもカッコイイ」
その数日後、ある商店街を歩いていると、開店祝いの生花のスタンドが飾ってあるお店があり、へ~、と
通りすぎようとしたその時、そのお祝いの花を引っこ抜いてる人あり。
それはいかにもあなたお店の関係者じゃないでしょって感じのおばちゃん。
とても気になったのですが、立ち止まって見るわけにもいかずそのまま通りすぎたその数分後、花を手に、
何食わぬふうに歩いているさっきのおばちゃん発見。「やっぱり。」と同時になぜか「かっこええわ~。」
と思ってしまったわたし。っとここで新たな定義。
「堂々と一人で悪いことができる大人はカッコイイ」
こんな風にカッコイイ人やことなんかが、この世に溢れているわけですが、当然川柳をやっていても、
カッコイイ!に出会うことがあります。それは言葉だったり、言い回しだったりするのですが、
そのひとつが、「すべからく」 キュン。
「すべからく、きみが好きだ。」 キュンキュン。
すべからく今夜はたまごかけごはんです。すべからく逃走中。すべからく皺である・・・嗚呼、すべからく悶絶。
意味とか用法とかどうだっていいんです。そんなものは豚に真珠だし、豚にすべからくなんです。
すべからく意味わかんないって言われてもすべからく困るべきもなく、カツ丼食べながらすべからく壁ドン
されちゃいました、みたいなすべからく世界はすばらしいものなのであります。
これまでにも、いくつかの「すべから句」に出会ってますが、そのたびに落ちて、堕ちて、墜ちまくってます。
いや、ほんまはいかんのですよ。
「すべからく」にほだされるようではね。
すべからくきちんと句の全体を見るべきなんですよ。そこは重々承知の助なんです。
えーい、しょうがない。こうなったら自分で「すべから句」を作ってしまおうじゃないか。
そうすればこんなもんかとこれ以上落ちて堕ちて墜ちまくることもなくなるんじゃないか。と。
すべからく青年森を受胎する ようこ
戸を閉めよすべからく世を捨てながら
すべからく高2男子の肺活量
末裔のワンタンメンのすべからく
すべからくくちをじょうずにうごかして
あゝ愛しきすべからく。 すべからく人生よ、 さようなら。
[edit]
レッツ パロディ!
2015/03/12
Thu. 15:13
パロディ好きなんです。
完成されたモノをちょこっと替えるだけで笑いがとれますから。
もちろんちょこっとと言っても、そこは本気で(不真面目に)一所懸命(軽薄に)考えますよ。
なぜならパロディにするということは、当然そのモノに対する好きという気持ちとリスペクトがあるからです。
もうずいぶん前になりますが、『「魚名魚辞」(渡辺隆夫)「水牛の余波」(小池正博)句評会』に
参加した時、渡辺隆夫さんが、「替え歌が出来るというのは名句の模範的条件だ。」
とおっしゃいました。
その時、わたしも本当にそうだと思ったものでした。
カモメ笑ってもっともっと鴎外 小池正博
意味より前に調子の面白さに引き込まれたという小池さんの句をもとに隆夫さんが作った句が、
石よ笑ってもっともっと漱石 隆夫
小池笑ってもっともっと水牛
というものでした。
これだけ見たらなんてことないのですが(失礼か)、やはり本歌があるからおもしろさが生まれるわけで
わたしも真似したくなるわけで。
小池狂ってもっともっと狂って ようこ
ウンコ踏んでもっともっと隆夫
え?全然ちがう?小池さんと隆夫さんに謝れ?
心の広い小池さんと隆夫さんなら笑って許してくれると思うんですけどネ。(←ちょと可愛く言ってみた)
さあ! カエル笑ってもっともっと川柳。
月みてはTOTOたらりTOたらり 渡辺隆夫
たらちねの農農たらり農たらり きゅういち
山みては呆呆たらり呆たらり ようこ
完成されたモノをちょこっと替えるだけで笑いがとれますから。
もちろんちょこっとと言っても、そこは本気で(不真面目に)一所懸命(軽薄に)考えますよ。
なぜならパロディにするということは、当然そのモノに対する好きという気持ちとリスペクトがあるからです。
もうずいぶん前になりますが、『「魚名魚辞」(渡辺隆夫)「水牛の余波」(小池正博)句評会』に
参加した時、渡辺隆夫さんが、「替え歌が出来るというのは名句の模範的条件だ。」
とおっしゃいました。
その時、わたしも本当にそうだと思ったものでした。
カモメ笑ってもっともっと鴎外 小池正博
意味より前に調子の面白さに引き込まれたという小池さんの句をもとに隆夫さんが作った句が、
石よ笑ってもっともっと漱石 隆夫
小池笑ってもっともっと水牛
というものでした。
これだけ見たらなんてことないのですが(失礼か)、やはり本歌があるからおもしろさが生まれるわけで
わたしも真似したくなるわけで。
小池狂ってもっともっと狂って ようこ
ウンコ踏んでもっともっと隆夫
え?全然ちがう?小池さんと隆夫さんに謝れ?
心の広い小池さんと隆夫さんなら笑って許してくれると思うんですけどネ。(←ちょと可愛く言ってみた)
さあ! カエル笑ってもっともっと川柳。
月みてはTOTOたらりTOたらり 渡辺隆夫
たらちねの農農たらり農たらり きゅういち
山みては呆呆たらり呆たらり ようこ
[edit]
ふらすこてん3月句会
2015/03/08
Sun. 23:03
ついこのあいだふらすこてんに行ったと思っているのに、すぐ次のふらすこてんがやってきます。
一か月経つのがまことに早いです。
時間が追い抜いていく 時間(わたし)を だから
追いかける 時間のぬけがらのわたしが
追いつかないです 追いつけないです
そうやって取り残される ひとり 事件現場に
わたしはだれですか わたしはわたしですか
ということで(どういうことで?)、今回の三人選、「問う」でした。
最高得点句。
いつ死んだん なあソーセージいつ死んだん 陽子
ふざけた句ですね。わたしの句です。
ちょっと冒険的な句だったので、こんなんでもいいんだ、とホッ!というかオッ?というか。
だからといって佳い句というわけではありません。
今回の選者さんは小池さんと本多洋子さんと祥文さん。
背景にある状況が想像できる。おもしろい。一字空けがよい。答えのない問いが川柳らしい。と
小池さんと洋子さんに選んでいただきました。
祥文さんには一言『あざとい。』と言われました。ハハハ。
一種の褒め言葉として受け取らせていただきます。
2次会ではかにちゃんから、もうひとつの句
時に蛸、禅問答はしておるか 陽子
のこっちは「句読点」でソーセージは「一字空け」にしたのはなぜかと問われました。
えーーーーっと。たじたじ。それはですね、たじたじ。
すみません、ほとんどなんも考えてませんでした。で、今日になって考えてみました。
確かに。そうですね。じゃあ、(じゃあ、て)こういうことです。
ちゃんとした大人はここで一回切れますよ。こういう時は句読点を使うんですよ。
ということをちゃんと知っています。句読点はちゃんとした大人が使うものです。
裏をかえせば、句読点はちゃんとした大人に見られたいという作中主体の欲求の表れでもあります。
一方「ソーセージ」の方の作中主体はこどもです。ちゃんとした子供は句読点を知りません。
でも発したことばには、明らかにそこに間があります。1字でなくても1/2字分くらいの。
ということでどうでしょう?
「問う」という題はおもしろいですね。生きていると問いたいことだらけです。
逆に問われるとたいへん困ることだらけです。
遠縁の遠縁らしい答えなり 柊馬
ならば問う糸蒟蒻の裏表 勝比古
いつからそこにいた袖口が湿っている かがり
質問はするなオヤジの葬式だ 博造
今回のわたしの句、
つま先の方からシミになっていく 陽子
星空のシミひとつない頭蓋骨
境目を酸っぱいものとして生きる
うどん屋ののんべんだらりを粉にする
ポン酢だと嘘ばかりつくはったい粉
抜けたものの既視感ありありでありんす・・・反省。
一か月経つのがまことに早いです。
時間が追い抜いていく 時間(わたし)を だから
追いかける 時間のぬけがらのわたしが
追いつかないです 追いつけないです
そうやって取り残される ひとり 事件現場に
わたしはだれですか わたしはわたしですか
ということで(どういうことで?)、今回の三人選、「問う」でした。
最高得点句。
いつ死んだん なあソーセージいつ死んだん 陽子
ふざけた句ですね。わたしの句です。
ちょっと冒険的な句だったので、こんなんでもいいんだ、とホッ!というかオッ?というか。
だからといって佳い句というわけではありません。
今回の選者さんは小池さんと本多洋子さんと祥文さん。
背景にある状況が想像できる。おもしろい。一字空けがよい。答えのない問いが川柳らしい。と
小池さんと洋子さんに選んでいただきました。
祥文さんには一言『あざとい。』と言われました。ハハハ。
一種の褒め言葉として受け取らせていただきます。
2次会ではかにちゃんから、もうひとつの句
時に蛸、禅問答はしておるか 陽子
のこっちは「句読点」でソーセージは「一字空け」にしたのはなぜかと問われました。
えーーーーっと。たじたじ。それはですね、たじたじ。
すみません、ほとんどなんも考えてませんでした。で、今日になって考えてみました。
確かに。そうですね。じゃあ、(じゃあ、て)こういうことです。
ちゃんとした大人はここで一回切れますよ。こういう時は句読点を使うんですよ。
ということをちゃんと知っています。句読点はちゃんとした大人が使うものです。
裏をかえせば、句読点はちゃんとした大人に見られたいという作中主体の欲求の表れでもあります。
一方「ソーセージ」の方の作中主体はこどもです。ちゃんとした子供は句読点を知りません。
でも発したことばには、明らかにそこに間があります。1字でなくても1/2字分くらいの。
ということでどうでしょう?
「問う」という題はおもしろいですね。生きていると問いたいことだらけです。
逆に問われるとたいへん困ることだらけです。
遠縁の遠縁らしい答えなり 柊馬
ならば問う糸蒟蒻の裏表 勝比古
いつからそこにいた袖口が湿っている かがり
質問はするなオヤジの葬式だ 博造
今回のわたしの句、
つま先の方からシミになっていく 陽子
星空のシミひとつない頭蓋骨
境目を酸っぱいものとして生きる
うどん屋ののんべんだらりを粉にする
ポン酢だと嘘ばかりつくはったい粉
抜けたものの既視感ありありでありんす・・・反省。
[edit]
しりとり(しりとられ)
2015/03/04
Wed. 19:03
ちいさい頃、しりとり(しりとられ)が好きでした。
しりとってはとられ、とられてはとってのくり返しがどうしてそんなに楽しいのかと思うのですけどね。
久しぶりにやってみました。
この星の赤が犇く沿道に
沿道にシュールな兄を搾りたる
搾りたる菊は酒気帯び蛇訛り
蛇訛りの女の肉片がおいしい
おいしいのか木工用ボンド
木工用ボンドで貼り付ける陰部
陰部説く君はメリヤス編みの少年
少年は国産というプレミアム
プレミアム卵子の豚に食パンを
食パンを愛でる箱ですこの星の
いやこれ、思った以上に楽しいです。
何気なく作った句の最後の言葉が思いのほか使いにくかったり、それに味をしめたわたしが「これでどうだ」
とばかりに普段使わないような言葉で責めてきたり、で、次、その言葉を使って作るもう一人のわたしが
「あぁ、そんな言葉、いけません。堪忍してちょうだい。」と懇願する、みたいな。
もはやプレイです。ひとりSM川柳プレイです。
あ、もちろんホンモノを見たことはないんですけどね。
途中、川柳か?というのもありますけど、そこはまあ、プレイですから。快楽優先で。
鞭の効果があったのか、いつもと違う自分の句にちょっとびっくりしたりして。
ぜひ、みなさんもお試しあれ。
しりとってはとられ、とられてはとってのくり返しがどうしてそんなに楽しいのかと思うのですけどね。
久しぶりにやってみました。
この星の赤が犇く沿道に
沿道にシュールな兄を搾りたる
搾りたる菊は酒気帯び蛇訛り
蛇訛りの女の肉片がおいしい
おいしいのか木工用ボンド
木工用ボンドで貼り付ける陰部
陰部説く君はメリヤス編みの少年
少年は国産というプレミアム
プレミアム卵子の豚に食パンを
食パンを愛でる箱ですこの星の
いやこれ、思った以上に楽しいです。
何気なく作った句の最後の言葉が思いのほか使いにくかったり、それに味をしめたわたしが「これでどうだ」
とばかりに普段使わないような言葉で責めてきたり、で、次、その言葉を使って作るもう一人のわたしが
「あぁ、そんな言葉、いけません。堪忍してちょうだい。」と懇願する、みたいな。
もはやプレイです。ひとりSM川柳プレイです。
あ、もちろんホンモノを見たことはないんですけどね。
途中、川柳か?というのもありますけど、そこはまあ、プレイですから。快楽優先で。
鞭の効果があったのか、いつもと違う自分の句にちょっとびっくりしたりして。
ぜひ、みなさんもお試しあれ。
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角田古錐句集『北の変奏曲』
2015/03/02
Mon. 10:38
神様も片手は少し汚れてる
牛丼は負けた戦の味がする
右の手はホントは他人だと思う
これらはあくまでも作者の個人的な意見。少なくともわたしはそんな風に考えたことはなかった。
それなのに、これらの句を読んで「そんなものかもしれない」と思うのです。
海を見て海だと妻が言っている
年越して去年と同じ犬に逢う
仏壇の裏をしばらく見ていない
なんなのでしょう。この自然体。誰もが経験してるはずの日常。
砂時計の砂が落ちていくみたいに一瞬で流れ、あっという間に見えなくなってしまうコトたち。
その流される一瞬を掴み取っただけのこと。でもその「だけ」がなかなかできることではないんだなあ。
些細なことがしずかに膨らみ、些細なことに収まりきらなくなる感覚。
通勤電車で金太郎飴になってゆく
寝違えた首粛々と街をゆく
しみじみとポルノ映画で聴くショパン
日が暮れて迷子だったんだと気付く
先ほど掴み取った一瞬を少しだけ見方を変えるだけでこういう川柳的川柳になるんだ。
共通認識としての事実に主観がはいることによって、作者にとっての真実があらわれる。
生きるということ、生きていくということのやるせなさに途方に暮れる作者があらわれる。
川柳とは事実に隠された真実をひとつずつ明らかにしていく文芸と言えるのかもしれません。
指先の汚れに気づくご焼香
バラ色の封書で届く他人の死
葬儀屋が春の挨拶して通る
寒い寒いと転がってゆくお葬式
伊丹十三監督の映画『お葬式』みたい、と思う。
お葬式というおごそかで重々しい儀式を巧みにおちょくっている。
こういったことを面白がれるのも川柳人にとって大事な才能なのだ。
露っぽい女と昆虫記を覗く
自然薯のような女とレレレのレ
身内だと言い張るモジリアニの女
古錐さんの(?)女はふしぎだ。湿っぽかったりねばねばだったりする。
物憂げな表情で身内だと言い張ったりもする。
昆虫記を一緒に眺めたり、レレレのレったりどこか妖しく怪しい時間を共有したくなるのです。
納豆とモーツァルトを掻き混ぜる
すりこぎは凶器じゃないと言い聞かす
いつ何処で死ぬのか世界地図で見る
行き止まりなのにテクテクテクテクテク
ちちははが挟まっている非常口
古錐さんとは一度、青森でお会いしました。72歳で背筋がピンとしていて、笑顔の素敵なおじさまだなあ
という印象が残っています。
あとがきに『信条という程でもないのですが、日常を通じて私は常に川柳を楽しもうと思っています。
伝統句も革新の句もそれぞれの良さがある訳で、また難解な句もそれを読み解く楽しさがあり、句会や
柳誌で色々な川柳に出会うことは大いなる楽しみとなっています』とあります。
そのような川柳に対する謙虚で柔軟な向き合い方が句にしなやかさをあたえているのだなあと思いました。
絶叫をするには人が多すぎる 角田古錐
牛丼は負けた戦の味がする
右の手はホントは他人だと思う
これらはあくまでも作者の個人的な意見。少なくともわたしはそんな風に考えたことはなかった。
それなのに、これらの句を読んで「そんなものかもしれない」と思うのです。
海を見て海だと妻が言っている
年越して去年と同じ犬に逢う
仏壇の裏をしばらく見ていない
なんなのでしょう。この自然体。誰もが経験してるはずの日常。
砂時計の砂が落ちていくみたいに一瞬で流れ、あっという間に見えなくなってしまうコトたち。
その流される一瞬を掴み取っただけのこと。でもその「だけ」がなかなかできることではないんだなあ。
些細なことがしずかに膨らみ、些細なことに収まりきらなくなる感覚。
通勤電車で金太郎飴になってゆく
寝違えた首粛々と街をゆく
しみじみとポルノ映画で聴くショパン
日が暮れて迷子だったんだと気付く
先ほど掴み取った一瞬を少しだけ見方を変えるだけでこういう川柳的川柳になるんだ。
共通認識としての事実に主観がはいることによって、作者にとっての真実があらわれる。
生きるということ、生きていくということのやるせなさに途方に暮れる作者があらわれる。
川柳とは事実に隠された真実をひとつずつ明らかにしていく文芸と言えるのかもしれません。
指先の汚れに気づくご焼香
バラ色の封書で届く他人の死
葬儀屋が春の挨拶して通る
寒い寒いと転がってゆくお葬式
伊丹十三監督の映画『お葬式』みたい、と思う。
お葬式というおごそかで重々しい儀式を巧みにおちょくっている。
こういったことを面白がれるのも川柳人にとって大事な才能なのだ。
露っぽい女と昆虫記を覗く
自然薯のような女とレレレのレ
身内だと言い張るモジリアニの女
古錐さんの(?)女はふしぎだ。湿っぽかったりねばねばだったりする。
物憂げな表情で身内だと言い張ったりもする。
昆虫記を一緒に眺めたり、レレレのレったりどこか妖しく怪しい時間を共有したくなるのです。
納豆とモーツァルトを掻き混ぜる
すりこぎは凶器じゃないと言い聞かす
いつ何処で死ぬのか世界地図で見る
行き止まりなのにテクテクテクテクテク
ちちははが挟まっている非常口
古錐さんとは一度、青森でお会いしました。72歳で背筋がピンとしていて、笑顔の素敵なおじさまだなあ
という印象が残っています。
あとがきに『信条という程でもないのですが、日常を通じて私は常に川柳を楽しもうと思っています。
伝統句も革新の句もそれぞれの良さがある訳で、また難解な句もそれを読み解く楽しさがあり、句会や
柳誌で色々な川柳に出会うことは大いなる楽しみとなっています』とあります。
そのような川柳に対する謙虚で柔軟な向き合い方が句にしなやかさをあたえているのだなあと思いました。
絶叫をするには人が多すぎる 角田古錐
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