欝金記① 

2015/10/21
Wed. 17:27

「うこんき」だと思いこんでました。「うこんぎ」でした。
渡部可奈子(昭和13年松山市生まれ←わたしも同じ松山出身なのだ!)が41歳の時の句集です。
その若さで、自分をまた世の中を深く見つめ、その受け止め感じたことを美しくたくましく表現できている句を
前にすると、なんとまあわが句の愚かでお粗末なことよ、この恥さらしよ、と思わずにはおれません。

   バケツ提げる 止観の海を提げる
   環にかえるときは厭離の耳かざり
   虚空にあって血書は神をみていない
   穢土のあゆみの一夜はぬれた髪に寝ぬ
   肋のカノンが聞こえたらふたりの冥府(たび)
   そこなくぐつ そこな笑いの短き有(う)

仏教用語を使いこなしている。可奈子は肺結核を患い療養生活をしていた時期があった。
だからかな、「止観の海」とか「厭離の耳かざり」は、常人ではなかなか気づきえない可奈子独自の
目線で静かに且つ確実に生を見つめている気がします。俗にまみれたわたしなどは、これらの言葉に
これぞ無我の境地とばかりに、にわか可奈子信者になってしまうのである。
可奈子はどのようにして句を作っていたのかなあ。現実をまず自分にしっかり引きつけておいてから
伝えたいことをはっきりさせてから言葉に変換していくという作業をしていたのかな。一語一語に無駄がない。
だからこそ現世はつまり「短き有」と断定することにためらいは必要ないし、その強さに圧倒される。
そこなくぐつ そこな笑いの短き有。かっこいい。



   何を見し眼鏡ぞ春の未明に澄む
   横切るは白い僧形 鷗の海
   目に青葉 快走すべし泥の船
   秋灯火 うまいと呑まむ針千本
   死ぬものかぴえろの愛撫にはなれる
   絵双紙のひとつ目小僧とならば契れ
   花ざかりの鹿の子をえらぶ縊死えらぶ
   吊り橋の快楽をいちどだけ兄と
   零の親しい うんと親しい片目の鮒
   けもの死す しかも図鑑の奥ふかく

流行りのBL読みできそうな。無邪気さの中にもどこからか漂う禁断のにおい「針千本」「吊り橋の快楽」。
罪の意識から抑圧され歪んだ少年愛「ぴえろの愛撫」「片目の鮒」。
葛藤のすえ「縊死えらぶ」「けもの死す」のかなしい結末。だいじょうぶ、愛することは罪ではないのだ。
最後の句からまた最初の句へ戻ると、、、、さらに萌え。妄想だけでごはん3杯いける~。



   革命や 日傘はぬるき血を流す
   姉よりも先に首級をあげるべし
   灯がついて狂いの生家どこにもなし
   弾んだ毬に ははに介錯などいらぬ
   雪舞うや 劣性つもりつもりし末
   正面の鬱 その足は父母に向く
   時計の渕に乞われ潰れる父似の耳
   湯はむずがゆく炊け 血のひとり子

ひとつ屋根の下に住んでいた頃、家族、血というものに嫌悪を抱くなどと思ったことがなかった。
離れて初めて気づく違和、わだかまり。でもそれも本人にしかわからない「狂いの生家」であって、
そんなものは最初からないのかもしれない。
介錯というのは切腹をした人の背後から首をはねる行為。即死させて苦痛を長引かせないようにするのだ。
「弾む毬に介錯はいらぬ」だとまあふつうに面白い。でも「ははに」とチョロっと付け加えるだけで格段に
面白さはアップする。そこにリアリティを感じるからだ。そんなことを考える可奈子というリアリティが
虚のリアリティを強めているんだと思う。血とは揺るぎのないもの。いい意味でもわるい意味でも。
だから人の気持ちは揺らぐ。だから「むずがゆく」炊くんですね、可奈子さん!


(つづく)



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