高野豆腐からゴムの木まで 

2016/03/23
Wed. 18:27

高野豆腐の料理教室に誘われた。
乾物ブームが来ているらしい。
高野豆腐は嫌いではないのだけど、ある時食べた高野豆腐がえづくほどに不味く、その後おいしい高野豆腐を
食べてもその記憶が上書きされないでいる。こういうのもトラウマと言うのだろうか。

高校のある日のお弁当、一口かじったそれはぼそぼそとお出汁と本体の一体感がまったくない。
まるで濡れそぼった布団の中綿だった。うち捨てられた布団、昨日から降り続ける雨、白みがかった布団の綿は
どっぷりと雨水を含んだせいで薄茶色に染まった、それである。
当時、お弁当を残すことを許されなかったわたしは、うえぅっと何度もこみ上げるものを押さえ涙目になりながら
飲みこんだ。
それ以来、高野豆腐が嫌いになった。大人になって、お惣菜屋さんの高野豆腐を食べてこんなにおいしいもの
だったんだと知ってからも、その時の感触がよみがえってきて100パーセント好きとは言えず今に至る。
そんな理由で料理教室も断ったのだが、その時に思い出した句。


   県道に俺のふとんが捨ててある    西原天気


いや、ぜんぜん違うし。ふとんつながりだけだし。濡れそぼってないし。
とおっしゃるのもごもっとも。
それに正直言って、「県道に俺の」の部分、忘れてたし。西原さんの句に捨てられたふとんの句があった。
実はそれだけだったのだ。
わたしは記憶力が弱い。だからどんなにいいなと思った句でも一字一句正確に暗記できないという無能さを
差し引いても、ある語句だけで、あの人のあんな句があった、と思い出のようによみがえってくるということは
すごいことなんじゃないかと思うのだ。
西原さんといえば捨てられたふとんの句だよね、ではない。捨てられた布団といえば西原さんのあれ、
あったやん、なんか捨てられた布団の句。なのだ。
この違いはすこぶる大きい。たとえことの発端が高野豆腐にあったとしてもである。作者は、なんだそれ、と
思ったとしてもである。

そんな句がもう一つある。

   
   二科展へゴムの木運び込まれをり    西原天気


これも17音をソラで言えないのだけど、ゴムの木と聞くと思い出す句。
ゴムの木が運ばれている情景が焼き付いてしまった。あの、昭和の時代、うちにもあったゴムの木。大きくて
分厚くて、最近のおしゃれな観葉植物が増えてきた中、気づけばそれは洗練されない姿のまま、家庭用としては
おそらく人気のない部類に入るであろうゴムの木。それが二科展という晴れの舞台に運び込まれているのである。
ゴムの木への愛着などまったくないのに、感慨深いのである。

たぶん、この句以前以降ともにゴムの木の句はあるんでしょうが、わたしがあまり出会ったことがないというのも
あるんでしょうが、それにしても、なのである。

高野豆腐をトラウマとするならば、捨てられたふとんとゴムの木は良性のトラウマ。
普段は忘れていても、かつて受けた精神的な衝撃がその言葉を聞くだけでその時の記憶としてよみがえってくる。
フラッシュバックのように。


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