読みについて。 

2015/03/23
Mon. 17:36

川柳の読みって何なのでしょうと、近ごろ考えます。

川柳は読みの時代に入った、と言われ久しいですが、わたしは川柳を始めて以来ずっと「読み」をして
きませんでした。
それはきちんと「読み」をしてくれる人がいたし、それはわたしの役割ではないと思っていましたから。

第一、川柳を「読む」ことは恥ずかしいのです。
なぜかというと自分の無知さ、考えの浅はかさ、語彙力のなさ、価値観、、、あげればきりがありませんが、
とにかく自分というものがそこに出てしまうからなんですね。
つまり「読み」をすることで、さらに自分を「読まれる」みたいなおそろしさといいましょうか。

だから、こうやってブログで他の方の句の鑑賞をするなんてことは、つい数か月前まで思ってもみなかった
ことなんです。自信なんてまったくないです。恥ずかしいです。逃げ出したいです。
そんな後ろ向きな姿勢でなんでやってるのかと問われれば、魔が差したとしか言いようがなく、いや~、
魔ってこわいですね~、おそろしいですね~って。それじゃあ、さよなら、さよなら、さよならって立ち去ろう
としたら、あれ、行かれへん、と振り返ったら、天使の顔した悪魔がスカート踏んづけてるんですよね。


そんな思いでブログを書いていた時、某柳人と「読み」について話すことがあり、少しずつわたしの中で
「読み」に対する考えが変わってきたのでした。


それは川柳の読みに正解はない、ということ。
たとえ自分が意図したものと違った解釈だったとしても、自分の句に立ち止まって考えてくれる人がいて
くれたことが喜びなのだということ。
その結果として幾とおりもの読みが存在することは当然で、それこそが句の持っている力なのだということ。

これらは頭では分かっていたことでした。でもわたしの中に「そうは言ってもやっぱり、できるだけ作者の意図を
読みとってあげたい」という気持ちが強くあったのです。それはわたしが読みをされる場合、自分の思うところの
読みをしてもらったらとてもうれしかったし、全然違う解釈をされた時にちょっとがっかりしたりしてたからなん
ですね。

ただそこにはひとりよがりの一瞬の快感のみを求めていた、本当に恥ずかしいほど小さく、つまらない
自分しかいなかったのです。



ややっ、うっかり真面目なことを書いてしまいました。あいすみません。

と言いながら、次回につづきます。








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